昭和52年 5月8日 朝の御理解 1・2・3・4・7
御理解第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
生神を目指すということは、信心が、あー、いよいよ進んで行くことだと、ね。いよいよ信心を進めていくということは、いわゆる目的と言うか根ざしと言うところがはっきりしておらなければならない。根ざしがはっきりしておらないと、自分の生き方が果たして本当な方向へ向かっておるかすらも分からない。
目指す所がはっきりいたしておりますと、そこへ向かって進んでいくのですから間違いがありません。これはもうこの世あの世を通して、ね、えー、いつまでかかってでもここの所の、んー、まあ境地と言うか信心を目指さしてもらう。いわゆる総生神、それを目指すと言う事なんです。
昨日、んー、戎浦よしえ先生がここへ出てきましてから、色紙を持って来ました。で、これに「明日、母の誕生日です。で、何か一筆書いてください。それを母へ誕生のプレゼントにする」と言うわけなんです。それで、( ? )を書かしてもらおうと思ってお願いさしてもらって、こういう句を書いてあげました。
●1「屋台の火 そこだけ激し 雪乱舞」「屋台の火 そこだけ激し 雪乱舞」ちょうどあの屋台というのは、あー、夕方から夜中にかけての、おー、食べ物を売ってるわけですね、屋台。で、冬のことですからこうテント、幕なら幕が貼ってありますけれども隙間から、まあ言うならば、あー、淡い光がこう照ったり、まあ雪はもうそれこそ一面に、んー、降っておる、それにも周囲、そのー、そこだけが降ってるということはない、どこにも降ってるんですけれども、ちょうどその赤い火に照らし出されておるその雪景色と言うか雪の降っておる模様が、そこだけが降っておるように見える。
しかも、風が伴うて雪が舞うように降っておると言う、まあ情景なんです。「屋台の火 そこだけ激し 雪乱舞」、ね。あたくしどもがいろんな難儀が重なってまいりましたり苦しかったりしますと、自分だけが1番貧乏くじを引いておるように思うたり、自分達が1番難儀な者のように思うたりいたします。
これが、んー、心の灯火と申しましょうかね、それが赤々と、おー、しておりますから、自分のその屋台の近所だけが降ってるのじゃあない、どこにも降っているんだということが分かるんですけれども、火が小さいと、ね、自分だけが寒い思いをしてるんだとか、不幸せだと言う風に思うのです。●
昨日、千恵子さんが、あー、ある用件で病院に参りました、医大に参りました。そしたらもーうそれこそたくさんな病人さんがずっとそこにその番を待っておるところでした。まあほんとに病院に来りゃあ病院に来るでまあ、ほんとこんなにたくさんの病人がおんなさる、ね。ほんとに世の中に難儀な氏子のもう多いことに、まあ驚くばかり。
2●で、全部その順番を待っておる間にその難儀な人達の、んー、その難儀の様相を見ながら、神様へ御祈念をさせて頂いておりましたら、御心願に「ふかねり?」を頂いた。「ねり」ね、ねりのふかねり。白い所が多い、多い、あのふかねり。それをはすに切ったり、みじんに刻んだりしておるところを頂いた。
ねりということは、これは神主さんのことをねりと申しますよね。神に仕える人のことをねりと言う。ですから、それはお道の教師ということにもなりますでしょう。お道の教師を志して今年学院に参ります。しかもその、おー、言うならば世の中の難儀な氏子が取次ぎ助けられる、そうした神様の手にも足にもならせて頂いて、難儀な人が助かっていくことも願わせてもらう。
信心と言うのは、初めの間は誰でも自分の難儀な問題か何からから入ってくるのが普通です。そして、言うなら合楽に通うておるご信者さん方は、段々信心が分かってまいります。信心が段々分かって来ると言うことは、例えばそこに難儀を感じてもです、自分の不都合不行き届きを気づかせてもらう。自分の心の火が重いからそこだけ雪が乱舞しておるかのように見える、実際は外へ出てみるともうあたり一面は雪景色。
言うならば、吹雪はここだけではない、いっぱいにあってるんだと。自分の心の火の、言うならば小さいことを気づかせてもろうて、いよいよ心の光が大きくなっていくことを楽しみに信心させて頂くようになりますと、ね、不思議にもう自分だけのことじゃない、天や国家のことまで祈らしてもらう。
まあその、天や国家と言やあ、まあ最高でしょうけれどもその手前の言うなら、難儀な人を見たら救わずにはおかれん、助かってもらわずにはおられないと言う心が起こってくる。ましてや人の難儀が取次ぎ助けられることの為の御用に、言うならば精進させてもらっておる、うー、者としてはです、ね、例えばここだけでも、久留米医大だけでもこれだけのたくさんの病人がおる。
まーだ、それこそ世の中にはどのくらい難儀な人がおるやら分からない。けれども、縁がなからなければ祈るということも出来ません。難儀な人達を見て、そこに祈る心が起こってくる。三代金光様が上を飛行機が飛んでおると、「どうぞ、あの飛行機が無事に目的地に着いて、また無事に帰って来れますように。と言って祈りますのじゃ」と。
もう子供があちらで泣いておりますが、ね、いわゆるお取次ぎさせて頂きながらもそのむずがっておる子供が、「どうか痛い痒いがあるんじゃないだろうかと思うて祈りますのじゃ」と仰ったそうです。あたくしどもでもここへ座っておってお取次ぎさせて頂きながらでも、サイレンをけたたましゅう鳴らしながら走っておる車やらがここへ聞こえてまいりますと、やっぱ、とこう目をつぶって祈らずにおられません。
それが祈れれるようになるということが有難い。自分が一生懸命、今お祈りしとる、言うなら赤の他人の別にどうと関係があるわけじゃないけれども、そこで見た聞いたということが難儀なことである時に、それを祈らずにはおれない。その祈らずにはおれないその心が有難いのである、ね。
あたしは生神への過程と言うか、ね、生神への道すがらと言うは、ね、そう言う心がいよいよ強うなってくる。または、そこに難儀を感じた時に自分の心の狭さ小ささがです、ね、それこそ「屋台の火 そこだけ激し 雪乱舞」と言うような、ね、自分が1番貧乏くじを引いておる、自分が1番ほんとに、えー、それこそ不幸せが、まあ自分がその、1番不幸せな者のような考え方をするということがです、心の火の小さいことに気づかせて頂いて、おかげを頂いていく。
4●昨日、お風呂に入ろと思うて浴場へまいりましたら、少しばっかり出てある水がもう真っ赤に濁っておる。あんなことは初めてだ。今日、お風呂をそりゃあもうひねったら、あの、泥のような水が出る。そんならこっち、信館の方はどうだろうかと、なら、信館の方も、おー、こんなに濁ってないですけどももう濁っておる。
それでもまあ信館の方でお湯が出てあると言うから、信館の方で、ね、これはその原因というものはそこにあろうけれども、そう言う濁り水を使わなければならないと言う所に、やっぱりハッと感じるものがなからなければいけない。家内と、嫁と二人でここにお詫びに出てまいりました。
もう夕方の、その食事の準備をするのに合楽食堂まで湯水をもらいに行かんならん( ? )なるほど、お詫びさせて頂きました。したら、休みます頃には、んー、休みます頃には大体きれいになっておったようですけれどもです、ね。その例えばあの、お詫びする心なんです。これはこうなってこうなったからここが濁ったんだと言うのではなくてです。
濁った水を使わなければならない、( ? )にあの、あたくしどもの水のお粗末な使い方が、ね、言うならば家族全体の者に、お風呂にも入ってもらえないような結果になっておるということをね、詫びる心です、ね。それを例えば、あー、ああだこうだと他の所に焦点を置いて、詮索をする。ね、だからそういう生き方が生神へのあたくしは道だと思うんです。
子供が悪い、主人が悪い、家内が悪い。それをそう言う者思う者自身がです、ね、子供じゃない家内じゃない主人じゃない、言うならば私の信心にそれを頂いていく、ね。私の不徳を詫びていく。そして、精進の足りないことを、に気づかしてもろうてそこへ精進の焦点を置いていくところから濁った水も清まっていく、言うことを聞かなかった息子も言うこと聞くようになる、えー、良くなかった家内も主人もお互いにこう改まり合うて行けれる、言うならばおかげの世界があるのです。●
金光様の御信心はね、そう言う生き方になる時にそうした体験が生まれてくるということがです、いよいよ生神へのいわゆるおかげというか楽しさというものが出来てくるのです、ね。ただ自分が改まりさえすりゃあ、自分が詫びさえすればいい。なるほど、詫びる心とか自分が改まるということは結構なことですけれども、それになーんにも伴わなかったら、やっぱいけませんよね。
7●しかし他の宗教の方達やらはようあれであげな信心ばしよる、し続けておられると思う。体験もなーんにも伴わない信心。御利益なんか言うたら、「そんな信心はおかしい」なんて言う人達がよう信心を続けていかれることだと。自分の心を辞していくと言うても、治めていくと言うても、自分の心を治めていく精進をさして頂けば、そこにいわゆる黙って治めるなら黙って治めると言う生き方をすると、なるほど黙って治めると言うことがこんなに素晴らしいことなんだと言う体験が必ず伴うていくんです、金光様の御信心は。だから有難いのであり、だから楽しいのです、ね。●
昨日、おー、研修の時でしたかね?(物部?)の高山さんところの、あの嫁さんが、んー、参って来ました。もちろん、主人はちょっと病院に入っておりますから、主人のこと子供たちのこと、まあいろいろお取次ぎお願いします。その後にお母さん、婦人総代をしておられますお母さんが参って、これは毎日2人とも参ってみえるんですけれども、参って来てからのお届けの内容がね、いわゆる親と嫁との相違がね、信心の相違をそこに物語る、物語っておるわけです。
例えばあの、高山さんが参って見えるとね、必ず最近親先生っち。親神様と若先生、親奥様、ね、合楽教会大発展のこと、修行生一同のこと、それから、近所に難儀な方達があります方達のことが、ずっと、うー、お願いしてあります。なかのじゅんきちさん、久保山ふみさん、石井やすしさんと、これは自分の周辺に難儀な人達の、おー、ことなんです。次に、やはり息子のこと、自分のことと、ね。
嫁子と親との信心の相違がそこにはっきり分かるでしょう?ね。それがね、総代だからしなければならんのじゃなくて、そうせずにはおられないと言うところに、高山さんの信心があると思うんです。だから、3●生神への過程と言うのはね、果たして自分が、もう自分のことばーっかりしか願わん、自分のことだけしか頼まん。とても人のことだんまあーだ頼んだこともないと言う信心がです、ね、自分ではもう20年も続いておるとするならば、おかしいんです。
いわゆる、あなたの信心の目標、願目が間違ってるんです。「生神への」と言う所に焦点がおいてないのです、ね。祈る内容も変わってくるです。焦点が間違ってます、願目が間違いない所に根ざしがおいてある。しかも、最高の所へ根ざしがおいてある、ね。言うなら遠い所に置いてある。●これから例えば、東京なら東京まで歩いていかんならんと言う、ね。
東京への道はこれだと指し示して頂いたら、そこを様々な所を通って辿っていかなければならない、ね。それにも関わらず例えば、言うなら鹿児島の方へ向かっておるようなことではせっかく歩いておるのに、ね、いよいよ願いとは反対の方へ向かっていくことになる。だから、生神と言う、ね、皆もそのようにおかげが受けられると仰せられるその生神への焦点。
そこで起きてくる全ての事柄、その問題。また自分の周辺の事柄のことがです、ね、自分の祈りと対照してみて、「はあー、自分は今ここへんの所を通ってるんだな、辿っているんだな」ということが分からしてもらえる。しかもそれが一段と自分の信心が飛躍していく所にです、自分の心が有難くなってくる。
赤の他人のだれかれのことが一生懸命祈られておる自分に気が付く。その心が自分で自分の心が拝みたい、ね。「生神とはそこに神が生まれるということぞ」と言うておられます。素晴らしい言葉ですね。生神とはもうそこに神が生まれることなんです。そこではなくここですかね。生神とはここに神が生まれるということなんです。
祈っておること、ね、言うならばお道の教師でも志して頂くのであるから、ね。言うならば、深ーい信心、いわゆるふかねりである、ね。せっかく信心さしてもらうならば、言うならば教師の中の教師としてお取立てが頂きたいと言うような願いを持つならばです。ただ、持っておるだけでは出来ん、精進がいる。
精進さして頂いておる内にです、ね、難儀に満ち溢れておる、言うなら病院にやらして頂いた時に、ね、その難儀な人達の多いことかと思うただけではなくて、それを祈っておる、それこそはすに切ったり、またはみじんにしたりして自分の心を様々に使わせて頂く。難儀な問題がある。
だから「難儀な問題がどうぞおかげ頂きますように」と言うことではなくて、ね、例えば井戸の水が濁ったという時でも、これはここでは女の対象が家内であり、まあ、あー、嫁であるとするなら、ね、2人が揃うて、ね、ほんとに不行届きなこと、お粗末御無礼に出来ておることを気付かして頂いて詫びていくというしん、信心、姿勢なんですね。
今日は生神への様々な心の向かっておる状態、また、向かっておるならばその生神の手がかりと言ったようなことを( ? )ました。ですから、「とてもとても生神様なんてならんでよか」と言わずにです、金光様の御信心は総生神を目指すことだと言われるのですからね。その遠い所ですけれども、そこの遠い、そこ、生神を目指しておる時分であるですから、ね、このくらいの修行は当たり前。と言うその修行にでも非常に張りが出てまいります。
そしてそれがほんとに言うならば、何て言うですかね?美しい麗しい心。人のことを祈るとか願うとかと。そげなどころかまず自分が、自分のことが先と言うような、もちろんそうですけれども、ね、三代金光様ではないですけれども、ある新聞記者が金光様をお尋ねして「金光様、あなたは朝から晩までここ座って御祈念をなさっておられるが、どういうことを願いとされておりますか?」と言うて質問したそうです。
たら、金光様は、んー、「世界総氏子の助かりを願います」と仰った。ほで、「金光様、あんまり大きすぎるけんもう少し具体的に言うてください」っち。その、まあ( ? )のことを申しましたら、そしたら金光様が「大は小をかないますから」と仰った、ね。そりゃ始めの間は自分のこと、それこそ自分の主人のこと、子供のこと、言うならばそれ、そこから入ってくるのです。
高山さんとこの嫁の場合はそうなんです。けれども、ならお母さんの場合にはどういうことになっておるかと言うと、教会全般のことから、もうそれこそ教会家族の者のことから修行生のことから、または自分の近所の難儀な人達があるならその人達のことから願う。しかも毎日これは願い続けておられます。
しかもそういう願いがもっともっと育っていくことに違いありません、ね。そして、大きな願いが、言うなら大きな願いと言うかそう言う行き届いた願いが出来れるようになる時にです、その中に自分もあると言うことです。例えば合楽の人がです、合楽部落のことを一生懸命願われるならば、自分の家も合楽にあると言うことなんです、ね。
合楽部落の人が合楽の村全体のことを願うということは、ね、(なるほど?)言うなら合楽の部落が繁盛いたしますように願うならば、その繁盛するようになったその部落の中にあたくしの方もあると言うことなんですから。大は小をかなえるわけなんです。しかも、そういう願いがでけることをです、ね、神様が喜んでくださらないはずがない、またそれを切実に祈っておる自分自身が有り難うなってくる。
その、その、その瞬間だけでも我が心が神に、ね、生神とはここに神が生まれるということだと言われる。そういう神の誕生というものがです、日々、ね、続けられていく内にです、段々ほんとの生神へ向かうことの喜び楽しみと言うものが大きくなってくると思うんです。
と言うて、なら始めからそれがでけるとは決して思わ、思われません。誰だって一番切実なのは自分のことです。その自分のことだけの切実さがです、言うならば病院に行ったら病院にたくさんな難儀な、あー、様相を見たり聞いたりする時に、それが切実に祈れれるということが信心が深くなったことだということになります。
ふかねりです、ねりということはあたくしは神に仕える人、まあ言うならばお取次をさして頂く人、ね。お道の信者の一人一人が総取次者とも言われるのですから、ね、あたくしどもがそう言うお取次がいつもでけておるような心の状態が、自分で自分の心が拝みたいと言う心の状態。
そういう心の状態を今ここに神が生まれておるのだと思うのです、ね。そういうあたくしは信心の世界、しかも金光様の御信心の場合は、ね、それだけのことの祈りが出来て、そしてそれが自分ながら有難いと言うおかげを頂いてまいりますと、そこにはもう必ずおかげが伴うていくのです。だから楽しいのです、有難いのです。総生神を目指さして頂かなければいけません。どうぞ。
明渡徳子 2005年11月9日